
最初にMacを選んだ理由は、単純に「美しかったから」だった。
無駄のないデザイン、触れるたびに感じる上質さ──Windowsにはなかった“思想のようなもの”に惹かれて、Macを仕事道具に選んだ。
Macを40万円で購入し、5kディスプレイ+4Kディスプレイ、HHKB Studioまで揃えた。リモート環境に投資した金額は実に100万円を超える!
憧れていた“最強の開発環境”のはずだったが、待っていたのは操作の不自由、効率の低下、そして深い後悔だった。
美しい外観とブランドイメージに惹かれた結果、気づけば「思考の自由」を失っていた。
ショートカットの癖、キーマップの制限、デバイスとの相性問題──すべてが足枷となったとき、ようやく悟る。
結局、「この世は、Windowsで動いていたのだ。」
それからの3年間は戸惑いの連続だった。
ショートカットひとつ取っても、微妙な挙動の違いが積み重なって、思考のペースが乱れる。最初はそれを「Macに慣れていないだけ」と片付けていたが、次第に“何かが根本的に噛み合っていない”と感じるようになった。
ようやく気づいたのは、自分がMacに「Windowsと同じ思想」を求めていたことだった。
Macは“なんとなく動かせてしまう”。だがその裏には、徹底して設計された「選ばせない思想」が流れていた。
この文章は、そんなMacと自分の“思想の衝突”を経て、ようやく理解し、和解し、乗りこなせるようになったまでの記録だ。
Macを使いこなしたい人のためではない。「Macで苦しんだことがある人」へ贈る話である。
憧れて選んだMac──“美学”への期待と現実
Macを選んだきっかけは、性能でもOSでもなかった。
単純に「かっこいいから」──それがすべてだった。
美しく洗練されたデザイン、静かな動作、目を引く存在感。
Windowsで慣れ親しんできた“実用性”とはまったく別の価値軸が、そこには確かに存在していた。
だが、美しさを求めて選んだ道具が、自分の思考と衝突するとは当時の自分には想像もつかなかった。
ここから、Macとの“思想の違い”をめぐる3年間が始まる。
Windowsにない洗練さが“答え”だと思った
最初にMacを選んだ動機は、シンプルだった。
「なんか、かっこいいから。」
無駄のないデザイン、心地よいアニメーション、静かで美しい筐体。Windowsでは見たことのない美学がそこにはあった。
これを使えば、仕事のテンションも変わるんじゃないか。
周囲の視線も気にならなくなるんじゃないか。
──そんな期待があった。少なくとも最初は、それで良かったと思っている。
ただ、その美しさに「思想」があることには、当時の自分は気づいていなかった。
「なんとなく使える」が逆に思考の邪魔になるとは思わなかった
Macの最大の特徴は、「説明がなくてもなんとなく使えてしまうこと」だ。
でも、それこそが思考を妨げる最大の落とし穴だった。
たとえば、Windowsでは「なぜこのショートカットでこう動くのか」を論理で把握できた。だがMacは、意図的に“考えさせない設計”になっている。結果、頭の中で道筋を描きながら作業することが難しくなっていった。
Macは「わからないまま」、でも動く。まさに完成された究極の技術だ!
この“親切すぎる設計”は、実は“思考の型”を持っている人間には逆効果だった。自分の流れで仕事ができないことが、こんなにもストレスになるとは──使ってから初めてわかったことだった。
失敗の本質──Macを「Windowsと同じ思想」で扱った過ち

Macでつまずいた原因は、単なる慣れや操作の違いではなかった。
最大の原因は「Windowsと同じ思想で扱っていた」ことだった。
これまでの思考や操作の延長でMacを使おうとした結果、根本的なストレスと生産性の低下が発生した。
見えていたはずの効率が見えなくなり、道具との信頼関係すら揺らいでいく。
その原因が“思想のズレ”だったと気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。
エディタ、ショートカット、操作体系への苛立ち
Macでは、あらゆる操作体系が「Apple流」に再設計されている。
最大の苛立ちは、デファクトスタンダードなアプリが存在しないことだった。
たとえばエディタ──Windows時代に当たり前に使えていた秀丸やサクラエディタのような軽快さと多機能性を、Macには見いだせなかった。ショートカットに至っては、操作の都度 “あれ?” という違和感が積み重なる。
しかもキー操作のレスポンスやタイミングによって挙動が不安定になる場面もある。一手遅れることで思考が中断される体験が、積み上がっていった。
効率の低下に気づかず、苛立ちを道具のせいにしていた
ある日、Mac上での作業に妙な疲れを感じた。
そのとき初めて、「いつものペースで思考できていない」ことに気づいた。
けれど、当時はすべてをMacの仕様や設計のせいにしていた。
道具が悪い。合わない。使いにくい。そう思い込んでいたが──実際には、「Macの思想」を理解せずに自分のやり方を無理に押しつけていただけだった。
Macの思想は「選ばせないこと」にこそあると知った
MacのUI設計は、“選ばせない”ことに徹している。
選択肢を減らし、誰でも使えるようにする。その結果、「考える手間」が極限まで削られている。
それは逆に、自分で構築した思考パターンとぶつかるということでもある。
「使いこなす」のではなく「委ねる」──それがMacの思想だった。
このことに気づいたとき、ようやく道具との距離感が変わった。そしてその瞬間が、本当の“再スタート”になった。
道具に支配されず、Macと対等になるための折り合い

Macの問題は、操作性でもUIでもなかった。 本質的な障壁は「対応アプリの貧弱さ」だった。
Windows時代に当たり前のように使っていた定番アプリ、エンジニア界隈で“暗黙のデファクト”とされていたツール群──その多くがMacには存在しなかった。
例えば、パスワード付きのZIPファイル作成ですら、MacにはGUIで完結する純正ツールが用意されていない。 Windowsなら右クリックで終わる作業も、Macではコマンドラインで zip -e を叩くしかない。
この“文化的なギャップ”に気づいたとき、ようやく理解できた。 Macは「完成された体験」を提供するが、それはあくまでAppleが“正しい”と認めた型の中での話だ。 その枠から一歩でも外れると、ユーザーは突然“自己責任の世界”に投げ出される。
GUIに閉じたMac、その裏に潜むUnixの“裏口”
Macは、一見すると「すべてがGUIで完結する設計思想」の塊だ。
Finder、Dock、Launchpad、システム設定──ユーザーは視覚的な操作だけで、ほとんどのことが“なんとなく”できてしまう。
この快適さは、確かに誰にとっても優しい。しかしエンジニアにとっては、“余計なお世話”にもなり得る。
ファイルパスが隠され、実行ファイルの場所も曖昧、root権限に至っては触れるにも一苦労。
その“徹底的に囲われた環境”が、思考の導線を何度も断ち切ることになる。
だが、Macはその一方で「裏口」を用意している。
macOSはUnixベースであり、ターミナル(zshやbash)を開けば、GUIが隠していた全てにアクセスできる。
/usr/bin や /etc 配下の設定、sudoによる昇格、シェルスクリプトによる自動化──その全てがUnixの流儀で動く。
この構造は偶然ではない。Appleは、一般ユーザーにはGUIの快適さを提供しつつ、
一部のユーザー(=開発者)には「文句は言わせない自由」を与えるという、明確な二重構造を採っている。
つまりAppleの思想は、「お前ら全員に自由を与えるつもりはない。だが、必要なやつには用意してある」という分断的な設計にある。
万人向けの表層、その下に用意された専門家向けの地層──これがMacという箱庭の“実態”だ。
そしてこれは、GUIの限界を悟った者にだけ開かれる“鍵のない扉”でもある。
選ぶのは、ユーザー自身だ。
思想の全自動から、戦闘車両への変化──bashがその引き金だった
Macを使い続け、調べ、いじり、工夫を重ねるなかで、 ようやく“Macという道具”の奥にある思想が見えてきた。
デフォルトのzshをbashに切り替えたとき、それは明確な“転換点”だった。
GUIの“おもてなし”から、CLIによる“自己責任の世界”へと切り替わった瞬間。 それはまるで、全自動の快適な乗用車から、軍用の戦闘車両へと乗り換えたような変化だった。
Macは、すべてが美しく整っている。 だがその美しさは、「考えさせない思想」に裏打ちされたものだ。 そこから一歩外れたとき、人はようやく“Macとどう付き合うべきか”を本気で考え始める。
それは「Macを理解した」ではなく、「Macの思想に触れた」結果だった。3年かかった。それまでは責任の伴う難しい要求にはWindows。 自己責任で済むタスクにはMacと棲み分けていた。あくまでもMacをおもちゃの延長線上でしか捉えてになかったのだ・・
だがその先には、意外にも“自分の手足としての道具”が待っていた──少し無骨で、でも確かに信頼できる道具が。
Macという環境の“本質”に気づいた時
Macは「知らなくても使える」とよく言われるが、これは少し語弊があった。
Windowsが“誰もが同じ使い方をする前提”で設計されているのに対し、Macは「一人ひとりが自分の環境を設計していく」ことが前提になっている。
つまり、Windowsは横並びで共有される操作やアプリがあり、情報も画一化されやすい。一方でMacは完全に個人主義。深く掘り下げて初めて出会える“マニア仕様のアプリ”が数多く存在していて、それらの情報はなかなか表には出てこない。
たとえばAlfredやBetterTouchToolなども、ライト層の使い方ばかりが紹介されがちだが、その奥にある“思考そのものをカスタマイズする”使い方は、ほとんど語られていない。
これが「Macは難しい」と言われる理由のひとつであり、「Macは自由すぎてゴールが見えづらい」と感じる人が多い所以でもある。まさに、俺自身が3年かかってようやく痛感したところだった。
だが逆に言えば、Macは“個人仕様を極めたい者のための道具”だった。ここに気づいたとき、ようやくMacという環境の真価が見えてきた気がする
結論:Macは癒しの皮をかぶった“フェンリル”だった
Macは、最初はただのペットだった。 静かで、美しく、従順で、優しい。 起動すればすぐに使え、何も考えなくてもそれなりに仕事ができる。 まるで頭の良い柴犬。いや、もっと従順な癒し系──。 だが、それこそが最大の罠だった。
Macは表向き、「誰にでも使える美しいOS」として売られている。
だが実際の構造は、その真逆にある。
Macの本質は“属人仕様”──つまり、個人の癖や思想に深く依存する使い方を前提にしている。
設定は隠され、カスタマイズには裏技が必要。
環境構築も、AutomatorやAppleScriptといったマイナーな機能を使いこなせなければ何もできない。
標準的な業務PCとしては致命的に不向きだ。
だからこそ、日本の企業ではMacが敬遠される。
属人化はトラブルの温床であり、再現性のない環境は組織にとって「リスク」以外の何物でもないからだ。
だが──
個人で使うなら話は別だ。
一般的な使い方にとどまる限り、Macは「不便なだけの高級品」にすぎない。
だが裏のUnix層に踏み込み、Terminalでシステムを制御し、環境をすべて自分の仕様に書き換えたとき──
Macは“自分専用の戦闘機”に変わる。
誰にも共有できない。だが、誰にも真似できない。
それが、属人仕様に特化したMacの“もう一つの顔”だ。
Macは完成された箱庭──だが、その中に神獣が眠っていた
Macは確かに完成されている。 だが、その完成の裏には、“開発者への試練”が眠っている。 すべてが整っているが、あえて足りない。 GUIは快適だが、思想は閉鎖的。 それでも、殻を破れば“どんな地形にも対応する獣”が目を覚ます。
Macは、牙を隠したまま世に出た。
見た目は静かで、操作も洗練され、何一つ考えずとも使えてしまう。
「気づかぬ者は、そのままで構わない」”という、静かな断絶こそAppleが決断した思想なのだろう。
Macは導かない。語りかけない。踏み込まなければ、何も始まらない。
そして──
先の世界をのぞこうとする者だけが、その構造の輪郭に触れる。
Macは、羊の皮を被ったフェンリルだった。