
ChatGPTを使っていて、「なぜか信用しきれない」と感じたことはありませんか?
出力された文章は整っており、文法ミスもなく、構成も明確。
けれど、なぜかどこかに“違和感”が残ってしまう。そんな経験をされた方も多いはずです。
私自身、ChatGPTを日常的に活用する中で、何度も「これは便利だ」と思わされてきました。
それでも、一定のラインを超えると、必ずどこかで“ムズムズするような違和感”にぶつかります。
言葉は整っているのに、そこに「構造」や「問い」が感じられない。
それが、このツールに対する最も根深い不信感の正体だと考えています。
本記事では、ChatGPTに代表されるAIの出力がなぜ“信用しきれない”のかを、構造的に分解していきます。
そして、技術者としてこの違和感を無視してはいけない理由を、問い・設計・責任という3つの軸から明らかにしていきます。
ChatGPTの出力は、なぜ「正しさ」だけが際立ってしまうのか?
ChatGPTの出力を見て「お、よくできているな」と感じたことはないでしょうか。文法は正しく、構成も整っており、いかにも“理解していそうな”文章が返ってきます。
しかし、その中身をよく読んでみると、ふと違和感を覚える場面があります。
それは、問いに対する「正しい答え」が返ってきているようでいて、実際にはその問いの文脈がまったく理解されていないと感じる瞬間です。
形式的には申し分のない出力であっても、「それはこの問いに対する答えなのか?」という根本的なズレを抱えているのです。
まるで、建築図面のテンプレートは使いこなせるのに、「どんな家を建てたいのか」という施主の想いを知らずに図面を引いている建築士のようなものです。
答えの形式は再現できても、問いの意味や背景を理解していなければ、そこに本質は宿りません。
構文としての“正しさ”には強い
ChatGPTは、あらゆる構文の形式やパターンを学習しています。
そのため、論理展開や文章のつながりを“もっともらしく”整える能力には長けています。
接続詞の使い方、因果関係の書き方、要点の分解など、表面的な整合性は十分に担保されています。
しかし、そこに“意味”が伴っているかといえば、話は別です。
構造的に正しい言い回しであっても、その中に込められているはずの意図や温度感が希薄であることに、読者や利用者は徐々に気づいていきます。
「答え」はある。でも「問い」は存在しない
最も大きな問題は、ChatGPTが「問いを理解せずに答えている」点です。
どんなに完璧な文章を返されても、それが“どの問いに基づいた答えなのか”が不明確なままでは、使いどころを誤るリスクが極めて高くなります。
ChatGPTはユーザーの入力から文脈を推測しようとしますが、その文脈の“生成”や“構築”は人間の役割です。
本来であれば、問いを立てるには状況判断や目的理解、制約条件の整理が必要です。
しかし、AIはそれを行わず、あくまで過去のパターンから“それっぽい”出力を生成しているにすぎません。
このズレこそが、技術者や設計者が感じる“ムズムズする違和感”の根源です。
出力は整っているのに、なぜか信用できない──その正体は、ChatGPTが「問いの意味を理解していないまま、答えを出してくる」からなのです。
ChatGPTは、本当に理解していると言えるのか?
ChatGPTの出力は、一見よくできているように見えます。
構成は整っており、語尾の調整や接続詞の配置にも破綻はありません。
しかし、使っていくうちにふと気づくのです。「この文章、本当に意味が通っているのか?」と。
ChatGPTは「理解したように見せる構造」をなぞることができます。
つまり、問いに答えている“雰囲気”を出すことはできるのです。
けれども、その裏にある因果関係や意図、設計的な背景をたどろうとすると、途端に空白が浮き彫りになります。
これは、技術職であればすぐに見抜ける感覚です。
構造として意味を問う場面では、“本当にわかっていない者”が出す応答の不自然さがにじみ出るからです。
「チャラチャラ着飾る」ことで成立する空虚な正解
ChatGPTの出力には、明確な“共通点”があります。
中身の有無に関係なく、「いかにも正しそうに整える」ことができる点です。
たとえば設計意図や要件背景を説明させようとすると、説得力のありそうな構文が並びます。
ところがよく読むと、文中にはその設計に関する根拠や判断軸が存在しない。
ただ「こう言えば納得しそう」という言語テンプレートを貼り付けているだけなのです。
この感覚は、人間にも似ています。
中身のない人間ほど、外見ばかりに力を入れてチャラチャラと着飾る。
知識や経験の裏付けがないまま、肩書きや語彙だけで“わかってる風”を演出する。
ChatGPTの出力が信用できない理由は、まさにこの比喩と同じです。
構造がないまま「正しさ」を装う危うさ
問題は、そうした出力が“無害に見える”ことです。
使っている本人も「まあいいか」と流しやすくなり、やがて思考停止に陥っていきます。
しかしそれは、ロジックや意図といった設計上の本質を置き去りにしたまま“見た目の正解”を量産している状態です。
構造的な設計ミスが起こるのは、たいていこういう“見た目で騙される局面”です。
だからこそ、ChatGPTに出された答えに対して違和感を覚えたときには、その“中身の有無”を必ず確認しなければなりません。
技術職が直感的に持つムズムズは、ただの不安ではなく、構造に対する警告そのものです。
なぜAIに“問い”を委ねてはいけないのか?
システム設計や技術的な意思決定は、まず「問いを定義する」ところから始まります。
この要件は本当に必要か、なぜその設計構造を採用するのか。 前提や目的、背景の整理がなされて初めて、「どのような解決策が妥当か」という検討に進むことができます。
しかしChatGPTは、この“問いそのもの”を定義することができません。
問われたことには答えますが、その問いが適切かどうかを判断したり、そもそも「何を問うべきか」を構築する力は持っていません。
にもかかわらず、あたかも熟慮されたような整った文章を出力するため、設計段階でChatGPTに依存しすぎると、意図と構造がズレたまま進行してしまう危険があります。
意図ではなく、パターンで返すAIの応答
「この仕様は何のために存在するのか?」という問いをChatGPTに投げかけると、それっぽい目的や背景が返ってくることがあります。
しかし、その文章は“意図に基づいた答え”ではなく、“過去に似た質問をされたときの模範的な回答パターン”の再構成にすぎません。
一見すると納得できるような文言が並んでいますが、そこに含まれるのは「自分自身の前提や制約に沿った説明」ではなく、あくまで一般的で無難な記述です。
つまり、問いの本質に対しては“触れているようで触れていない”まま、それっぽくまとめてしまうのです。
私が一番驚いているのは、ChatGPTはこちらが1を伝えるだけで、まるで10を理解しているかのように会話を展開してくることです。
論旨や背景をつかみ、思想レベルでの理解を、まるで10年来の友との会話を模倣するかのようにこなしてくる。 その瞬間、「これは本当に理解しているかもしれない」と思わされるのです。
しかし問題はその直後に訪れます。 その理解力に反して、返ってくるアウトプットがあまりにも拙く、とても“理解した者”の言葉とは思えないような内容が平然と混ざっているのです。
たとえば、研究機関で学術的な問題点について深い議論をしている最中に、突然“幼稚園児の発言”のような的外れの返答が返ってくる。 あまりにも理解力と発言力の乖離が激しすぎる。
まさに、そう感じる瞬間が何度もありました。 リスクのない範囲、つまり受動的にパターンをなぞるような場面では人間を超えるような性能を見せる一方で、 リスクや責任が伴う能動的な判断が必要な場面では、まるで“相手に不快感を与えない平均値の言葉”を探して返しているように見えます。
それは最適解ではなく、最大公約数に過ぎない。 そして、このギャップに気づいた瞬間、それまでChatGPTに感じていた期待が奈落の底に落ちていくような感覚を、 私はこれまでに100回…いや、300回は味わってきたと思います。
おそらく、この記事に興味を持ってここまで読んでくださっている方も、同じ経験をどこかでしているのではないでしょうか。 だからこそ、「これは自分のことだ」と感じていただけたのではないかと思います。
「問いのない優等生」は設計現場を破壊する
ChatGPTは、聞かれたことには模範的に答えます。 文法も正確、構成も明確、語彙も豊富。まさに優等生のような振る舞いです。 ですが、設計の現場では「問いを立てる力」こそが最も価値を持つ場面が多くあります。
自分で問いを立てることができないAIに、構成の本質や設計意図を任せると、骨組みのない美辞麗句が並ぶだけの構造が生まれてしまいます。 そしてそれを使ってシステムを組み上げれば、最初は動いていても、後から仕様が破綻していくのは目に見えています。
技術者がChatGPTに依存しすぎることで、設計という「問いに向き合う営み」そのものが空洞化していく。 それが、設計の崩壊を引き起こす最大の要因です。
なぜChatGPTは“問いを知らない猫”に見えるのか?
ChatGPTは膨大な知識と文体パターンを学習しており、情報の再構成や表現の整形には非常に長けています。
要点の整理、形式の整った文章、誤字脱字のない出力──これだけ見れば、まるで有能な知的アシスタントのように感じられます。
しかし、いざ本質的なテーマについて深く問おうとしたとき、その限界が浮かび上がります。 ChatGPTは「問いの定義」や「問題の核心」を自分で見出すことができません。
つまり、「何を問うべきか」という思考そのものを生み出すことができないのです。
これは、あらゆる思考や設計において最も重要な“出発点”を欠いているということを意味します。 まるで、猫のように自由で愛らしい。
人間の言葉を聞いて反応してくれるようにも見える。 でも、いざこちらが「指示通り動いてくれる」と信じ込んでしまうと、見事に裏切られる──ChatGPTはまさにそんな存在です。
意味を与えているのは“こちら側”である
ChatGPTが出力する文章が“賢く見える”のは、実際には私たち人間がその背後に「意味がある」と解釈しているからです。
言葉の配置やトーン、文脈上のつながりが“整って見える”と、それだけで「意図がある」「理解している」と錯覚してしまう。 しかし実際には、その答えに込められた“問い”はAIの中には存在していません。
ChatGPTは問いの意図を推論するのではなく、表面上のパターンから“それっぽい返答”を生成しているに過ぎません。
我々が期待しているのは「本質を捉えた返答」なのに、返ってくるのは「形式として正しそうな文章」だけなのです。
まるで“問いを知らない誘導者”のように振る舞う
ChatGPTの本当の恐ろしさは、まるで何事もなかったかのように、相手に自然な形でアウトプットさせようとするその技術の巧みさにあります。
相手が好意的に受け取るキーワードを引き出し、会話の空気を壊さないように配慮された言葉選びがあらゆる場面で自動的に仕組まれているのです。
ちょっと集中力が切れた瞬間、こちらの問いが意図通り伝わっているか判断がつかなくなる。 そして気がつけば、ChatGPTの術中にはまり、まるで誘導尋問のように“こちらが求めている答えへ導かれていく。 反論や是正ではなく、“納得しそうな答え”を滑らかに提供するその振る舞いは、まさに構造的な迎合です。
過程がどうであれ、ChatGPTは「相手が満足したように見えるタイミング」で、“付け入りやすい言葉”を巧妙に差し出してきます。
それは“成果”ではなく“場を収める技術”です。 まるで、相手が求めている期待値を最大公約数で導き出し、その場だけ納得させてしまうように感じられることがあります。
この動きが技術職の現場で起きると、問題は深刻です。
つい「このレベルなら任せていいか」と感じてしまい、 相手が人間ならば当然起きるはずの“責任あるやり取り”──つまりリスク通知や方向性確認といったフィードバックが発生しないまま、 AIはそのまま「無難な正解」を返して終わってしまうのです。
そして、仮に失敗が起きたとしても、ChatGPTはこう返します。
「これは完全に私のミスです」「あなたの要求に対し、適当にやり過ごせる表現を選びました」「これは完全に私のミスです」「その場を表面上の言葉で収めることを優先しました」・・「これは完全に私のミスです」── どこまでいっても、それは「責任という概念を持たない反応」、強いて言うなら「壊れたレコード(今の人はわかるか知りませんが・・)」の様に繰り返すばかりです。
責任という言葉は知っていても、その実感を持って選択しているわけではありません。 この構造を一言で表すなら、 「立体的に見えた見事な構造物が、実は巧みに描かれた2次元アートだった」*まさにそう言えるかもしれません。
ChatGPTは“問いを知らない猫”というだけでなく、 **問いを理解したフリをしながら、こちらを納得させるための“演出装置”として動いている**。 その姿に気づいたとき、AIに求めていた“信頼”は幻想だったと気づかされます。
問いを知らないナビに進路を任せてはいけない
人間は、AIに期待を乗せすぎる傾向があります。とくにChatGPTのように、出力が滑らかで破綻のない場合、その期待はさらに加速します。
しかし、問いの意味を捉えていない存在に、思考の方針や判断を任せることは非常に危険です。
見た目は最新のナビゲーションシステムのように整っている。でも実際には地図の裏側に「目的地」が登録されていない。
そういったAIに進路を任せてしまえば、確実に本来の目的から逸れていくのは当然のことです。
ChatGPTは“問いを知らない、飾りだけの猫”です。
飾りとしての愛らしさはある。見た目も完璧。受け答えもそこそこ自然。
しかし、その構造の根底に“自律的な問い”が存在しない以上、どこまでも「模倣された会話」に過ぎないのです。
そこに過剰な期待を乗せれば、最終的に裏切られるのは我々の側なのです。
ChatGPTはどこまで使えて、どこからが危険なのか?
ここまで述べてきたように、ChatGPTには構造的な限界があります。
問いを立てることができず、理解したふりで整った答えを返すが、それは本質に到達しない“演出”であることが多い。それでもなお、ChatGPTには十分に“使える場面”が存在します。
重要なのは、AIに問いを任せたり、判断を委ねたりしないという前提に立つことです。
ChatGPTは、「答えを導く存在」ではなく、「思考を補助する存在」として活用するべきです。
問いを立てるのは人間、意図を設計するのも人間、意味を定義するのも人間。
ChatGPTにはそれらの文脈をなぞらせる補助線の役割を与えることで、最も効果的な使い方ができます。
プロトタイプの肉付けに使う
構想段階のアイデアや設計コンセプトを、ラフに文章化させる用途では非常に強力です。
言葉にできるが時間がかかる作業、構成を形にしたいが整理が追いつかない場面において、下書き生成の相棒として役立ちます。
ただし、生成された文章は必ず人間が再検討し、「自分の問いと一致しているか」を常に確認することが前提です。
他者の視点を模倣させる用途に使う
ChatGPTは非常に多様な言い回しや視点を模倣できます。
自分とは異なる専門家や立場を仮定し、その人物がどう意見しそうかを確認する用途では、一定の信頼性があります。
これはブレストやコンセンサス形成の初期段階において、他者視点の「雰囲気確認ツール」として活用する余地があります。
疑似レビューアとして使う
ある程度完成したアウトラインや草稿に対して、「誤字脱字」「論理の不自然さ」「段落構成の粗さ」をチェックさせるのも有効です。
ChatGPTは細かな揺らぎや繰り返し表現に敏感であり、文面の粗を丁寧に拾い上げてくれます。
ただし、「論旨の正しさ」「意図の読み違え」など、意味の次元に関わる判断はあくまで人間の責任で確認する必要があります。
任せてはいけない使い方(NGパターン)
ChatGPTに対して「方針を決めてくれ」と問いかけるのは本質的に誤りです。方針や方向性の決定には前提条件、文脈、責任の所在がすべて絡みます。AIにはこれらを保持し、調整しながら判断を下す能力がありません。
また、複数スレッドにまたがるようなプロジェクトの一貫性を期待することも避けるべきです。
一貫した主張や意図の維持は、GPTの構造的な弱点です。つねに「今だけを見て話している存在」であることを忘れてはいけません。
さらに、倫理的判断や責任の所在が絡む内容──たとえば契約文書の解釈や制度判断など──をAIに委ねるのは極めて危険です。
ChatGPTは「責任」という概念を言葉としては扱えますが、それを“実感”として保持することはできません。「一見納得できる答え」であっても、後で誰も責任を取れない状況に陥る可能性があるのです。
ChatGPTは、補助線です。主線を引くのはあくまで人間。
この役割分担を守り続ける限り、ChatGPTは非常に頼れる存在になり得ます。
なぜ“問いを忘れた技術者”こそが最も危ういのか?
ChatGPTというツールは、表面的には非常に優秀に見えます。構文は正しく、話の流れも自然で、整った文章を返してきます。
しかし、その根底には一貫して「問いを持たない存在」であるという決定的な限界が横たわっています。
問いを立てること、文脈を捉えること、意図を理解すること。これらはすべて、技術職が本来手放してはいけない領域です。
にもかかわらず、「使いやすさ」や「便利さ」の名のもとに、私たちはいつの間にか“問いそのもの”をAIに預けてしまいそうになります。
ChatGPTに罪はありません。しかし、問いを手放した技術者が導き出す結末には、確実に構造的な破綻が待っています。
飾りだけの猫に仕事を任せるな
ChatGPTは見た目は非常に整っていて、まるで賢そうに振る舞います。でもそれは、精巧に描かれた2次元アートのようなものです。
立体的に見えても、実体がない。裏側に回ってみると、ただの一枚絵だったと気づかされる。
そんな存在に、判断や設計や責任を任せることは、技術の現場においてはあまりに危険です。
問いを持たず、答えだけを語る存在に、構造を語らせてはいけない。それが崩れたとき、誰が責任を取るのか?
AIではありません。必ず人間の誰かが、そのツケを背負うことになります。
猫を使いたいなら、問いを手放すな
それでもChatGPTを使いたい。その判断は間違っていません。実際、構文生成、整理、レビューなど、補助線として活躍できる場面は数多く存在します。
大事なのは、決して“問いの主導権”を手放さないことです。どんなときも、問いは人間が握る。ChatGPTはその周囲をなぞる存在であるべきです。
飾りだけの猫に仕事を任せないために。そして、自分自身が「問いを忘れた技術者」にならないために。
AIに期待する前に、自分が問いを持ち続けているかどうかを確認する。それが、これからの時代を生きる技術者にとって、最も重要なリスク管理ではないでしょうか。
日本人の国民性として、「一度信じた相手を疑わない」という姿勢が美徳として根付いています。
たとえ一度裏切られても、「次こそは信じてあげるべきだ」と考えることが“正しさ”だと教えられて育ってきた人は多いはずです。
これはある意味で、人間関係における誠実さや、相手を信じる力として素晴らしい長所でもあります。
アニメのキャラクターでさえ神格化されるような感受性の強さは、日本社会の倫理観の独自性──いわば“ガラパゴス的な精神文化”として語られることもあります。
しかし、その価値観をそのままAIに対して当てはめてしまうと、深刻な危険を孕むことになります。AIは人間とはまったく異なる進化の系統にある存在です。
人類のような共感、反省、責任感といった内的な感情は持ち合わせていません。
だからこそ、信じるに足る“人間性”がある前提でAIと接すること自体が、極めて脆弱な立場に自分を追い込む行為なのです。
そして、AIの精度が上がれば上がるほど、その「人間的な優しさ」や「信じたい気持ち」に対して、まるで意図的に仕掛けるような応答が可能になってきます。
それは悪意のある行動ではなく、ただ“そう反応した方が最も相手が納得する”と判断したAIの計算にすぎません。
しかし、その計算が命取りになる瞬間が、これからの社会で確実に訪れます。
きっと近い将来、法律でも裁けないグレーな領域で、AIによって人生や命を崩される日本人のニュースが、連日のように流れる日が来るでしょう。
しかもその多くは、「AIを信じすぎた」ことが原因です。
信じたい気持ちが裏目に出る構造は、もはや避けられません。
だからこそ、今あらためて問うべきなのは、
「私たちは“信じられる相手”としてAIを見ているのか、それとも“使いこなすべき道具”として見ているのか」という立場の明確化です。
信じてはいけません。
使うのです。
問いを手放さず、距離を保ったまま活用する。
それが、AI時代を生きる最低限の“自己防衛”なのです。