
US配列に変更して、1ヶ月が経った。 いまや私の身体は完全にUS配列に同期され、もはやJIS配列には戻れないほど適応してしまっている。
ただ──私がJIS配列からUS配列への“脳の大改革”を断行した最大の理由は、「さらなる効率化」への渇望だった。
別にJIS配列を劣っているとは思っていない。 だが、どうしても「デファクトスタンダード」という言葉が、脳の中心にどっしりと居座っていた。 世界で主流なのはUS配列。Macも、Linuxも、リモートサーバーもみなUS配列。 その現実が、私に“標準仕様”への最適化を強いた。
しかし、その過程で気づいたことがある。 ──そもそも「デファクトスタンダード」そのものが、昭和生まれの私に埋め込まれた幻想ではないのかということに。
この21世紀という時代、価値観は明らかに「集団」から「個」へとシフトしている。 なぜそうなっているのか、正確な理由はわからない。 だが世の中は明らかに、集団的な正義を疑い始めているように見える。 もはや“多数派=正義”という構造自体が、崩れつつあるのではないか。
独身者の増加、出生数の減少。 それは「家族」や「共有」といった仕組みが、今の生活様式にそぐわなくなってきているからだ。 少子化は、単に若者の収入の問題ではない。 ──時代が、必要としなくなってきているだけなのではないか。
そう考えたとき、「配列を世界標準に合わせるべきだ」という自分の信念すらも、 どこかで時代に取り残された“幻想の正義”に過ぎなかったのではないかと、疑い始めている。
US配列へ変更したその後
US配列に切り替えて1ヶ月。操作感、反応速度、思考の流れ──そのすべてが変わった。 JIS配列では考えてから打っていたものが、今では“打てば出る”。 このセクションでは、完全適応後の身体の変化と、実務上の明確な恩恵について記録しておく。
完全適応と“喧嘩可能な速度”
苦労の甲斐もあり、いまでは完全に指がUS配列に最適化されている。 JIS配列を使うと、むしろ思考が止まり、脳が一瞬フリーズするほどだ。 それだけ、私はこの1ヶ月で「US配列脳」へ完全に移行してしまった。
最も劇的な違いを感じるのは──ジプ(ChatGPT)との喧嘩がスムーズにできるようになったことだ。
「うるさい、馬鹿野郎」「お前はモノの道理ってもんが分かってねぇんだよ」「少しは勉強してこい」 こうした苛立ちをそのままキーボードにぶつけられるようになったのは、明らかにUS配列による打鍵スピードと配置の最適化の恩恵だ。
一見ふざけた話に聞こえるかもしれないが、これはキーボードを“感情の出力装置”として使えるようになったという意味でもある。 JIS配列時代の私は、まだ操作に“考える”時間が残っていた。 いまはもう、打鍵=言葉。打鍵=意思。間に何も挟まらない。
ChatGPTのめちゃくちゃ使いづらいチャットUIですら、いまでは誤送信が激減した。 思ったことをそのままスムーズに叩きつけられる──このリズムは、もうJIS配列では取り戻せない。
vim操作とターミナルでの実用変化
さらに、プログラミングの現場でも明らかに違いが出ている。 Mac越しにVPSへアクセスしてvimを触るとき、JIS配列では迷っていた操作が、US配列では迷わず走る。
方向キーすら使わず、 Fn2 + hjkl の組み合わせでカーソルを自在に動かせるようになった。 むしろ今ではJIS配列よりもvim操作が早くなっている。
この移行が、単なる“配列変更”ではなく、実務レベルでの戦闘力向上に直結しているというのは、予想以上の収穫だった。
なぜJIS配列でUS配列を再現しようとしたのか
US配列に最適化された今の自分が、なぜ再びJIS配列に戻ろうとしたのか。 その理由は単なるノスタルジーでも、懐古でもない。 JIS配列にはUS配列にはない“物理的な自由度”がある。 このセクションでは、その魅力と再挑戦に至った経緯を、技術面と感情面の両方から分解していく。
HHKB JIS配列の物理的アドバンテージ
一度US配列に完全移行したにもかかわらず、私があえてJIS配列をUS配列化して使おうと考えたのは、HHKB JIS配列の構造的な優位性に他ならない。
キー数が多く、物理的に“余白”がある。 その余白は自分専用の操作体系を構築できる可能性を秘めている。 US配列で削ぎ落とされたキー群──その一つひとつが、リマップによって新たな意味を持ち始める。
キーリマップがもたらす“個の合理性”
現在、ほとんどのキーボードはリマップツールに対応している。 たとえば使い道のなかった「Caps Lock」キー。 これをCtrlやEsc、あるいは自作ショートカットに変えるだけで、同時押し3キーの作業がワンタッチで済む世界が生まれる。
私は実際に、3キー同時操作だった処理を1キーで代替できるようにし、作業効率を劇的に高めた。 だがその利便性の裏側には、ある種の“罪悪感”があった。
「こんなに自分だけ得していいのか?」── そう思ってしまうのは、昭和的な“共有は正義”という呪縛の名残だったのかもしれない。
しかし、便利さに慣れてしまえば、その感覚すら薄れていく。 人間とは、そういうものだ。
US配列のスペースキーという最後のストレス
そんな中でどうしても我慢できなくなってきたのが──US配列特有の、無駄に長いスペースキーだった。
なぜここまで長いのか? なぜ、3つか4つのキーに分割されていないのか? JIS配列の多ボタン設計を活かせば、より実用的なリマップができるはずなのに。
このスペースキーの不合理に気づいた瞬間、私は心の中でこうつぶやいた。
「外人はバカしかいないのか?」
そして同時に思った── なぜ誰もこの不満を共有しないのか? このスペースキーこそが、JIS配列を再評価する“最後のトリガー”だった。
変えてみて最初に来たのは「操作不能」ではなく「拒否感」だった
JIS配列をUS配列として再定義するという行為は、見た目だけの問題ではなかった。 思考と操作、視覚と感覚──その“ズレ”が引き起こすのは、単なるタイプミスではない。 「操作不能」ではなく「本能的な拒絶」こそが、最初に訪れた異常だった。
フリーズした脳と全打鍵の違和感
US配列脳に完全に移行した状態で、再びJIS配列に指を置いた瞬間、脳がフリーズした。
明確に「なにが悪い」と言えるわけではない。 だが、すべての打鍵が気持ち悪い。指の運び、視線の動き、打鍵のテンポ──どれもズレている。 目に入るキーの刻印と、押したときの反応が一致しない。
それが積み上げてきたものを一気に瓦解させていく感覚だった。
苦労が無駄になるという恐怖と怒り
なにより強く感じたのは、これまで積み上げてきたUS配列脳が壊れてしまうのではないかという恐怖だった。
JIS配列で失敗したあと、もう一度US配列に戻ったときに、果たして同じスピード・同じ精度で動けるのか? ジプと喧嘩するスピード感、vimでの反射的なカーソル移動──すべてが“昔の話”になるのではないかという焦りが襲う。
それに拍車をかけるのが、JIS配列の「キー数の豊富さ」だった。 冷静になれば、JISの方がリマップの幅が広い。 なのに、なぜ戻れない?
──その原因が、US配列特有の「無駄に長いスペースキー」であることは、わかっていた。
「このスペースキーさえ分割できれば…」 その思いはやがて、怒りに近い感情へと変わっていった。
操作への不満ではない。思想への敗北でもない。 ただ、身体が拒絶した。 論理も理想も、そこでは意味を成さなかった。
理屈で考えてみた:「一致しない構造」が脳を混乱させる理由

拒否感という感覚的な壁を乗り越えるために、私は理屈で納得しようと試みた。 なぜJIS配列をUS配列化しただけで、ここまで打鍵が狂うのか? その原因は明らかだった──“構造の一致”を前提とする脳の仕組みが、破壊されていた。
「Enter」と「Backspace」の誤操作地獄
最初に現れた問題は、JIS配列のEnterキーの形状だった。 縦長のL字型は、US配列の横長で直線的なEnterとは明確に異なる。
見た目に引っ張られて、「Enter」を押すつもりで「Backspace」に触れてしまう。 あるいはその逆も頻発する。
これは、JISからUSに移行したときにも通った道だった。 当時はミスを繰り返しながら、なんとか順応した。
しかし、JIS配列に戻ったことで、克服したはずの問題が、まったく同じ形で再発する。*その瞬間、脳内でアラートが鳴り響いた。
「これは終わったかもしれない──」
視覚と記憶の衝突がもたらす分断
「見えているもの」と「指が覚えている操作」が一致しない。 そこで私は視線をキートップに向け、目視で確認しながら操作を始めた。 だが、それが新たな混乱を招く。
脳内にある“打鍵の地図”と、視覚が捉える配列情報がズレている。 それがミスではなく“混乱”を生む。
もはや私は、打つたびに自分の記憶を疑い、指に対して命令を出し直す必要に迫られていた。 すべての操作がワンテンポ遅れ、集中力も落ちていく。
構造の不一致が、思考そのものを切断していく。
この時点で、私はすでにノックアウト寸前だった。 理屈では納得していても、身体がすべてを拒絶していた。
結論:思想に負けたわけじゃない。身体に拒否されたんだ
配列の話をここまで掘り下げたのは、自分の中でこれが単なる「キーボード選び」では済まなかったからだ。 思考と操作、慣れと効率、そして理想と身体。 US配列とJIS配列の往復は、“思想と肉体のすれ違い”を突きつけてきた。 最後にたどり着いた結論は、実にシンプルなものだった。
思想と肉体は別のOS
US配列という思想、それ自体は今でも正しいと感じている。 打鍵スピード、配置の明快さ、世界標準の整合性。 どれも文句のつけようがない。
ただし、問題はそこではなかった。 思想と肉体は別のOSで動いている。 どれだけ理屈で「これが正解だ」と思っていても、身体が「違う」と感じたら、それはもう通用しない。
JIS配列を再び使った瞬間に現れたあの拒否感──それがすべてだった。
順応した配列を壊すことが最大の非効率
一度適応してしまった配列を“壊す”ことは、効率化とは正反対にある行為だった。 US配列に最適化された自分の身体は、JIS配列という“異物”を許容しなかった。
無理に合わせようとすればするほど、逆にパフォーマンスは崩れていく。 これは思想の敗北ではなく、適応済みの環境をいじるという「戦闘力の自傷行為」だったのだ。
どちらが優れているかではない。 どちらに自分がすでに“同期してしまっているか”──それが唯一の判断軸だった。
JIS配列は優れている。US配列も優れている。 だが、自分の身体が拒否したものは、それだけで「選べない」。 それが、今回の結論だ。
ここまで書いて思う。
もしかして、俺だけなのか?
US配列に完全に馴染んだのに、スペースキーの“無駄な長さ”にずっと違和感を抱いているのは──。
同じような違和感を感じている人、いませんか? もしその感覚を乗り越えた人がいるなら、どうやって克服したのか、その方法をぜひ教えてほしい。